みなさん、こんにちは。西です。

この三が日は、さすがに各patioとも低調ですね。

8/13-14-15と田舎の平戸、志々伎シジキというところに年一回の里帰りです。

本来なら13日に、初盆のお宅を回るのですが、いつも13日はすれすれで帰って来 るので、14日の中日に、親類回りと初盆回りをいっぺんにやりました。


何軒か回るなかで、掛屋三太郎さん(85)という大工さんのお宅に行きました。
この掛屋さんは、僕の二番目の父の皇三が、生前大変懇意にしていた方です。

子供が四人いて、長女は僕の同級生、掛屋敏子。
二番目が長男で、今回は留守。
三番目が、美代子さん。六つ下。56歳。小さかったころの面影あり。

掛屋三太郎さんが、99/0115に、長崎で亡くなったと言うので、お線香を上げに 行ったわけですが、そのとき、その美代子さんが、こんなことを言われたんです。

まだ彼女が6歳かそこらのとき。

そのころ、私の家の真ん前がまだ海で、右手にきれいな[水雷波止]という小さな 波止場がありました。

幼い小学一年かそこらの彼女が、服を着たまま竹の棒を持って水遊びをしてい たところ、その竹が流されたのかどうしたのか、ひょんなことで、思わず海のな かへドボンと落ちて
しまったそうです。

まだ泳げない彼女が溺れかけていると、さっそうと現れた学生服の[西屋の順ち ゃん]が、服のまま飛び込んできて、溺れる彼女を助けたんだそうです。

以来彼女は、その時のことを忘れません。

大きくなってからも、[いつか御礼を]と思いはするものの、年ごろの娘として は気恥ずかしくはあるし、順ちゃんは滅多にシジキにはいないし、で本日に至っ たと言うんですね。

で今ごろ、ちょうど50年ぶりに御礼を言われたわけですが、僕は全然そんなこ とは覚えていません。

自分が小学一年か、二年のときに溺れて、[大谷八蔵くん]というがき大将に、 浮き板を差し出されて助けられたのはよく覚えていますが、自分が助けたと言う ことはきれいに忘れていました。

その時六歳と幼かった妹さんも、いまや56歳と、一人前のおばちゃんなんです ね。
しかし、このお話は、われながら、気持が良かったです。(^^)


あ、そうそう。今回の帰省には、Nikonの7*21倍小型双眼鏡、視野角7.1度と いうのを持ってきたのですが、星はともかく、南方三キロの[志々伎山]347mと いう元火山の頂上直下にかなりな断崖があるんですが、これを双眼鏡で見ると、 大変な迫力ですね。


もう一つびっくりしたのは、僕の村でも、こんなド田舎でも、今年から、ド コモが出来たと言うことです。

去年までは、折角の携帯も、平戸の町までで、僕の村まで来ると、残念ながら [圏外]。
一般電話は外してあるし、親類の電話はmodular jackは取れないタイ プだし、[情報孤立]でフラストでしたが、今年から、シジキにいてもドコモでパソコン通信が出来ます。

感心したのは、村境の[風の鵜渡]という山に、たいそう不似合いな立派なドコ モのアンテナが立ったおかげで、漁船は我も我もと携帯を持つようになったそう です。

これまでにも船舶電話は使えたそうですが、結構維持費が高かった。

ご存じでしょう。漁船は、連絡が命なんですね。なにしろ、エンジンストップで 一命が危ないわけですから。そういうなかでドコモというのは、こういう田舎 でも、普通の電話代わりだけでなく、漁業無線として、ビジネスに、生活に、人 命救助に役だっていると言うことですね。だいぶ遠い集落や海上までも届くそう ですよ。

(KK西研究所・所長 西 順一郎)