今度6/29にソニーの新社長になる安藤国威(くにたけ)氏(58)と言っても知ってる方は少ないかも知れない。しかし例の「VAIO」の仕掛け人と言えば、誰でもハハンと納得がいくことだろう。
安藤くんたち15人が、昭和44年(1969)に入社してきたころは、私はソニーの人事開発室に属していて、三菱以来ずっと人事マンであったので、人事勤労以外はほとんど何も知らなかった。ハッキリ言うと、社内報と教育しか知らなかった。
そういうわけで、私が、安藤くんたち文科系15人を引き受けたときは、僕自身も典型的な「I型人間」(一つことしか知らない幅の狭い職能人間)だった。
この「44年」という年は、私が中小企業診断士を受験した年でもある。
人事開発室に、「中平一州さん」という陸上自衛隊上がりの将官クラスの偉い人がいた。もはや55才というのに、すでにいろいろな資格を16も持っていて、さらになおまた何かを受験しようと勉強している、ということだった。
昭和41年に29才でソニーに移り、昭和42~43年と二年間秘書を経験していた私は、中平さんのその言葉を聞いて、がぜん触発された。
あの中平さんでさえが勉強している。自分は今30才そこそこだ、よし勉強しよう! と思って、早速代々木の企業経営通信学院に中小企業診断士の通信教育を申し込み、昭和43年4月から勉強を始めた。
一番初めに送られてきたのが、たしか山城章の『経営学』だったと思う。
43年一年かかって基礎コースを修了し、昭和44年から中級コースに進んだ。それと、安藤くんたちの入社受け入れ研修とが重なったのである。

 私はソニーが好きで、ソニーにあこがれて転職した。それで、ソニー精神については誰にも負けないと自負していた。したがって、安藤くんたちが入社してきたときには、当然のこととして、この15人を大のソニーファンにしようと意気込んでいた。
ところが、残念なことに、安藤くんたちの反応は違うものだったのである。安藤くんは言った。「いいえ、私はいつまでソニーにいるか分かりません。それに私は今やっている文学、もの書きをやめるつもりはありません。」
他の徳中たちの反応も同様なものがあった。
言われてびっくりした私自身が、その年、6月、8月、11月と診断士の受験が進むにつれ、変わってきた。私自身の気持が、彼らと同様になってきたのである。
私自身、いつまでソニーにいるか分からない、まず自分が自立して、自分が社外に通用するところまで実力を付けて、それでソニーに貢献出来ればいいじゃないか、という考え方に変わってきたのである。ともかく、社外に、社会に通用しなければならない、と思うようになった。

 昭和45年4月から、代々木の第一経理学校に通いながら、簿記三級からはじまってずっと、財務会計や原価計算の勉強を始めた。
そして、竹山正憲の「付加価値経営セミナー」とか、青山学院の夜間大学院公開講座のORコースとかに出席したり、通学したりした。
本も、一倉定の『原価計算であなたの会社は損をする』とか、窪田千貫の『限界利益のつかみ方』とか、今坂朔久の『経営者のためのダイレクトコスティング講話』とか、手当たりしだいに、直接原価や管理会計、利益管理等の本を多読した。その結果、昭和45~50年の間に、「戦略会計」STRACが次第に形成されて行ったのである。
そして、昭和50年末~51年にかけて、ソニーの井深氏の経営思想を内蔵する「マネジメントゲーム」MGを作るために、決算システムとしては「マトリックス会計」を完成させた。
これにより、遊ぶだけで小井深、小本田になれる経営シミュレーション的経営学・会計学の学習法が完成したのである。

 何が言いたかったかというと、安藤くんたちが入ってきた昭和44年にはMGもSTRACも、マトリックスもなかった。私が「M屋」(人事屋)であったために、この15人に対して、M的偏向教育しかしてあげられなかったということである。
もし、MGがもう10年前に開発出来ていたら、当然私は、この15人を一年間MG100期、生きた経営学と会計学の分かるY理論かつDC(直接原価)主義者の筋金入りに仕立てる努力をしただろう。
1981年、MGを経験したソフトバンクの孫正義さんは、MG、STRAC大好き人間になり、社内を数十チームに分けてSTRACで管理した。損益分岐点さえAクラスであれば、あとは何をやってもいいという自由を保証した。
歴史に「もし」はないと言うが、もし、昭和44年入社の安藤・徳中たちをMG/MT/STRAC/MXで武装させていたら、いまごろ、世界のソニーは、西式で経営されていたことだろう。(^-^)

(KK西研究所・所長 西 順一郎)