一本目の電話

それは朝1058、秋田の千葉ちゃんからだった。「芦田さんからの電話によれば、山ちゃんが5/10の午後、会社で亡くなったそうです!」 5/10と言われてカレンダーを見ると、日曜日。休みにも彼は会社に出ていたのか? 他に人はいたのだろうか?

電話を受けたとき、私は琵琶湖→壱岐と四日連荘の出張中で、最終日に当たっていた。この日の飛行機で帰京する。

追っかけ、山ちゃんの地元の芦田さんから第二報。
「告別式は5/14の正午からだが、そのあと”偲ぶ会”があるので、来れるんだったら、1300ごろ佐久平に来てくれれば、迎えにいく。」

このあと、ようやく妻に電話が繋がって、二人で駆けつけることになった。

山ちゃんとの出会い

「山ちゃん」(山崎進=浅間エンジニアリング㈱社長、60歳)と言われても、西研MGをここ10~20年やっていない人にはなじみのない名前かも知れない。しかし、全国で西研MGをやっている仲間には非常に知られた有名人なのである。

私が山ちゃんと初めて会ったのは、1990年ごろの小諸グランドホテルだった。東部町のA社主催のMG会場であった。

非常に前向き/表現型の山ちゃんは、初めて会ったというのに、何の遠慮も臆するところもなく、嬉しそうに言った。

「うちは今度PIPSを入れるんですよ!」
「おおっと、ちょい待ち。それは即キャンセルしてマイツールを入れなさい。」
「えっ、もうとっくに発注して、数日中に入るんですよ。」
「だから、今すぐ断わって、MTに切り替えなさい!」

そこで別れたのだが、後になって彼はしょっちゅうこのときの話を繰り返し語るのだった。私には『PIPS革命』という記念すべき一冊があるし、当の本人から「それはやめてマイツールにしろ」と言われたら、誰だって面食らうだろう。

PIPSとマイツール

思えば、私自身PIPSからマイツールに切り替えるのには越えねばならない溝があった。当時、私の横浜オフィスにその名もMTという切れ者のヤングがいて、私のPIPSのフロッピーを全部マイツールに移し変えて、「さぁ使え」と私のお尻を一蹴りしたのである。こうして私はPIPSからMTユーザーに変われたのである。

(今具体的に、自分のPIPS→マイツールへの切り替え時期を調べてみたら、1985.0422からとなっている。それまでは、PIPSで日程管理をやっていた。)

PIPSもMTも作者が同じだから同根の兄弟だ。しかし後から作られたMTの方が数段オリジナルPIPSに近い。また、素晴らしい飛躍もあった。

山ちゃんは、それがキッカケでPIPSユーザーになるところを、幸運にもマイツールユーザーになることが出来た。

後日、小諸にある彼の会社を訪問してみると、彼自身が経理システムなどのオートを精密に組んでいるのを見せられて、驚いた。

山ちゃんは、見るからに豪傑タイプ、大雑把タイプで、朝からビールを飲み、土日はゴルフをやっているタイプである。とてもこんな緻密な仕事を自分でやるとは思わなかった。しかし考えてみると彼も理科系だから、別段無理もない話かもしれない。

SP山ちゃん

彼はMGをやり、すぐMGシニアに来、タヒチにも来た。1988年以降、私がSP(spiritualism)を始めると、彼も山本貞彰先生のセミナーに通った。山本先生は以後、英国SPツアー、アイルランドツアーなどを実施されたが、その第一回は英国の湖水地方を訪問し、ロンドンのSPチャーチを二箇所めぐるというものだった。

SPチャーチで、全員が一人ずつリーディングを受けるのだが、そこで守護霊からアドバイスを受けたり、いろんなことがある。山ちゃんはそのとき、「ヒーラーの素質がある」と言われたのだ。

見たところそうは見えないのだが、実際彼が他人の胸や背中に手のひらを当てると、ジーンと暖か~くなるのだった。この「手当て」は私などがやっても少しは効力があるようだが、山ちゃんのは特別だ。但し彼は特にその能力を開発しようとはしなかったように思う。いずれにせよ、彼は、あらゆる人、多くの人に親切にし、暖かく接し、感謝された。

1987年に新潟で亡くなったSCT社長の佐々木隆(39↓)はMG界の巨人であり、生前「歩くF」と言われたが、この山ちゃんも多分に「歩くF」であった。私たちも何度彼から夕食をおごってもらったか判らない。

軽井沢ちゃんちゃんこMG

年二回の軽井沢MGも、先月で第15回に達した。このとき60歳の赤いちゃんちゃんこを芦田氏の奥さんが四着作って、山ちゃん、千葉ちゃん、芦田さん、延命さんの四人が着てMGをやったのは壮観だった。このちゃんちゃんこMGが彼の最後の姿となった。(もっとも、彼自身は所用のため、初めの二時間しか参加できなかった。)

彼の思い出は強烈であり、かつ人脈が幅広い。ただ呑み過ぎるほど呑む人なので、誤解を受けることもあったかも知れない。

彼は、西研MG、西MG、西イズムの強烈な赤チップマン(宣伝マン)であった。とても私自身にはいえないほどの推薦・推進の弁を、彼は人並みはずれた説得力・話力で皆に語った。聞かせた。泣かせるものがあった。

もはや、あれほど手放しで西研の宣伝をしてくれる人はいなくなった。

彼は年末に軽トラで走っていて、電柱に激突し、三ヶ月近く入院した。命に別条はなかったが、足は複雑骨折だった。ご家族も、社員もものすごく心配しただろう。

三月初めにようやく退院して、社業(今は未曾有の不況下だ)に復帰したばかりだったのに、この5/10、心筋梗塞でということは、やはり極度の過労だったのではないだろうか?

「どんなに赤字が続いても社員は整理しない」という珍しい社長だった。そのY理論社長が一人この世から消えた。しかし、もうすぐあの世で、また例の豪傑ぶりを発揮し、皆に愛される山ちゃんであり続けるはずだ。1987年12月、一足お先に逝った新潟の佐々木隆とも、あの世で「PIPSだ」「いや、マイツールだ」とやりあう日が近いかも知れない。

(KK西研究所・所長 西 順一郎)